(岐阜県中津川市) 更新:2019年7月(6)
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加子母の大スギ
環境省巨樹巨木林DBによれば、幹周/12. 04m、樹高/22m。根回り20m、樹齢千数百年。
加子母の大スギ
右側の建物が大杉地蔵尊の地蔵堂。その裏手に加子母の大スギがあります。
加子母の大スギ
結構広く平らな盆地の中央に1本だけ突出してあります。
加子母の大スギ
見てもわかるように幹周にしては樹高が足りません。頂部は災害で折れ、平坦な面になっているそうです。
加子母の大スギ
大杉の根元。腐朽は見られません。周囲は大きく柵が巡らされており、樹肌に触れることはできません。
加子母の大スギ
かしも大杉地蔵尊と大スギ
大杉地蔵尊。その歴史に、奈良時代の僧行基や、平安末期の文覚上人が登場する古刹です。
加子母の大スギ遠景
平地に屹立する加子母の大スギの遠景です。
加子母の大スギ説明板
名称 : 加子母の大スギ
所在地 :  岐阜県中津川市加子母683 ○地図リンク提供:マピオン
撮影日 : 2019/4/13 加子母の大スギ マップ
指定 : 国指定天然記念物 (T13年12月9日指定)
アクセス : 【車】中央道・中津川ICから国道257号を北に37.8km、右折し1.4km。駐車場あり。
加子母の平坦な盆地に1本だけ単独で屹立する大スギです。国道257号線から東に折れるとすぐに大スギが見えてきます。この地域のランドマークになっています。「加子母大杉」の名称で、大正13年(1924年)12月9日に国の天然記念物に指定されています。
 大スギの前には大杉地蔵尊があり、建久5年(1194年)源頼朝がこの地より西方300m程にあった老朽著しい地蔵堂に立ち寄り、この大杉を指して、この大木の下に地蔵堂を安置するよう告げたと言われます。地蔵尊は大杉地蔵尊として栄え、「延命長寿」、「安産」などの守り本尊として信仰されています。
 大スギは昭和の初め大雪のために上部より折れ、落ちた枝の年輪は800年余あったといいます。幹周13mもあるのに樹高は30mほどしかないのはこのため。折れたところは4平方メートルほどの平面状になっているそうです。
 以下の「大杉地蔵尊」の由緒については現地で頂いたパンフレットを参考にしました。
 大杉地蔵尊の本尊は奈良時代の高僧行基の作と伝わります。当初は滋賀県の瀬田大寺に安置されていましたが、瀬田大寺の廃寺により石山院に安置されていましたが、紀成恒という信者が尊像の安置の地を求め諸国を巡るうち、安元2年(1176年)当地に至ると尊像が急に重たくなったので、この地に留まりたいと悟り、成恒は小さなお堂を造り安置したといいます。
 さて、境内から道を挟んだ西側には、文覚上人のお墓があります。鎌倉時代の僧で、伊豆流罪の時代に若き源頼朝と会い、平家討伐の挙兵を勧めた人物です。その後頼朝が鎌倉幕府を開くと諸国を巡っていた文覚は旅の途中小郷の地蔵堂に一泊しました。その夜東方の池から一脈の光が出て西方の地に跨線を描いたのを見て地蔵菩薩のお告げと悟り、西の山に立派な寺院を造ろうと決心したと伝わります。文覚は頼朝の助けを得て壮大な寺院威徳寺を創建することができました。
 頼朝は建久6年(1196年)鎌倉への帰途、威徳寺を参詣し、ここ地蔵尊にも立ち寄りお堂の修復を命じ、東方の大杉の元に祀るように指示したところから「頼朝の指杉」の由来ともなっています。その後修復をしながら元禄7年(1694年)に至り、頼朝の志を継いだ地元民により現在の大杉の元に移築されたといいます。
 威徳寺は天正13年(1585年)の大地震で全壊し、再興されることはありませんでした。
(HP管理者)

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No.1901